紆余曲折な親子関係について(毒親育ち) Part 4「貧乏生活突入」

毒親育ち

母が「離婚する」と宣言してから1ヶ月弱が経った頃、父が急に家を出ていくことになりました。原因は、母が私と弟の学費のためにコツコツと銀行に貯金していたお金数百万円を、父が無断で使い果たしていたことが発覚したからです。
殆どが私欲のための浪費だったのでしょう。収入の少ないのに、服、時計、ゴルフクラブなどをよく買い替えていましたし、とにかくお酒が好きなので、外で飲んでいた時も多かったです。

これが発覚してから、母は我慢の限界を通り越し、父に出ていくように訴えました。父も観念したようで、直ぐに出ていくこととなりました。
新居が見つかるまで、しばらくはホテルに泊まっていたようです。

父が出ていったことにより、私の気持ちは大きな変化がありました。凄くスッキリした気分になりました。雲が切れた感じで晴れ間が見られて、非常に清々しい気分でした。
ようやく自由を手に入れた感じで、身が軽くなったような気がしました。

母は直ぐに離婚の手続きをして、まずは母だけ旧姓に戻しました。
父が出ていってから約2週間後、遠くに住んでいる祖母がサポートをするために家に来ました。

祖母は我が家の散らかり具合を見て、母に激怒していました。本当に家の中が荒れていて、食器は洗わずにシンクに入ったまま、服は畳まずにリビングに放ったらかし、お金は1ヶ所におかず小銭は机や棚に置きっぱなしで、本当に汚かったです。

祖母は相当頭にきたのか、母の兄弟たちに電話で母の現状を伝えていました。情けなくて仕方なかったようです。母は泣きながら「もう言わないで!」と訴えていましたが、祖母の電話は止まりませんでした。
その後、祖母が片付けの手伝いをしてくれました。そのおかげで、かなり整理整頓されてスッキリしました。

普段から私は母に「一緒に掃除しよう」と言っていたのですが、掃除をする気力がなかったようで、「今度しよう」といつも言われ、片付けることができませんでした。私が勝手に1人で片付けようとすると、よく怒られていました。

祖母は約1週間滞在していました。祖母が滞在中、話をするために父がやって来ました。祖母と父が対面すると、母も含めて3人で泣いていました。祖母からすると、離婚になってしまったのが残念だったのでしょう。
約2時間ほど話し合いをして、父は去っていきました。父は私に「また会おうな」と言いましたが、私は目を逸らして「うん」と言いました。心の中では「もう来ないで欲しいな」という気持ちでした。

その数日後に、叔父(父の弟)が家に来ました。仕事で近所まで来たので、少し寄ってみようと思ったそうです。離婚については父から知らされていなかったようで、この時に母から知らされビックリしていました。
帰り際に叔父に「また会おうな」と言われました。その時はちゃんと叔父の顔を見て「うん」と言いました。私は叔父の事を凄く気に入っていました。凄く優しくて、父の代わりによく遊びに連れて行ってもらいました。
父と同じ兄弟とは思えないほど、穏やかで優しい人でした。そんな叔父と今までのように容易く会えなくなると思うと、残念で仕方ありませんでした。因みに父方の祖母も優しかったので、本当に寂しい気分でした。

祖母が帰ってから数日後、父が最寄りの駅まで来ました。服などを取りに来たようです。私は母に頼まれ、服を入れたバッグを駅まで運びました。
別れ際に「俺はお前たちのことを愛しているからな」と言われました。私は父には信頼感は全く無かったので、「今頃言われても」と思いました。

母が旧姓に戻って約1ヶ月後、私と弟の姓も母形に変わりました。
「これからは、明るい未来がやって来る!」と、この時は勝手に思っていました。

母は無職だったので、生活保護受給者となりました。現在(2021年)とは違って、意外とすんなりと申請が通りました。
保護費は一ヶ月なんとか生活が可能なくらいの額で、決して贅沢できるような額ではありませんでした。

そのため、色々と制約しなければいけないことが沢山増えました。まず、行楽や外食の回数が減りました。とてもじゃありませんが、旅行が出来るような余裕はありませんでした。普段の生活でもかなりの影響があり、小遣いを貰えなくなったり、おやつが少なくなったりしました。友人たちと遊びに行く約束をしても、自分だけ行けないという事も何度かありました。

当時は日本国内が景気の良い頃で、バブル時代に突入する直前でした。周りの友人が、何処かに出掛けた話や、おもちゃやファミコンのゲームソフト買ってもらった話をしているのを聞いていると、羨ましく思うことがよくありました。

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