紆余曲折な親子関係について Part 10「ルーズな母に振り回される」

毒親育ち

中学2年生の頃、母は再びパートタイマーを始めました。新しい職場は家から徒歩10分ほどの所にあるショッピングモールの婦人服のお店です。朝10時から夕方5時位まで勤務していたようです。

夕方5時までだと、買い物などをすると、帰宅時間は5時~6時になっていました。学校の部活がない時、私の帰宅時間は、だいたい4時前でした。そのため、帰宅しても大概の日は、母は家にいないということになります。

この頃、私は鍵を持っていませんでした。何故かと言うと、母は極度の心配性で、鍵を持つと落としたり無くしてしまうかもと思っていたようで、鍵を持たせてもらえませんでした。実際に無くしたことはありませんでしたが、不安ばかりが先行して、持って外出することはありませんでした。そのため、学校の帰りに母の職場に行って鍵を預かって帰宅するという毎日でした。

自宅から学校まで片道約15分でした。しかし、下校時は鍵を預かるため母の職場に寄っていたので、学校から母の職場まで約15分、そこから家まで約10分なので、帰宅するのに25分かかっていました。
同級生で親が働いていて不在の人は何人かいましたが、ほとんどの人は鍵を持っていました。鍵を持っていないのは私くらいでした。
昔から母は極度の心配性で、子供のことを信頼していなかったのではないかと思います。

鍵を持たせてもらえなかったので、煩わしく迷惑に思った事は沢山ありました。私が学校から帰ってくるまでに買い物に行ったり出かけたりして、私が帰ってくるまでに帰らず、家のドアの前で何分も待たされたことが何度もありました。
部活のない時の帰宅時間はだいたい把握しているはずなのに、時間など気にせず赴くままに出掛けていたようです。そのため、友達と遊ぶ約束をしても、集合時間までに行くことが出来ず、遅れたり行けなかったりで、友達から顰蹙を買う事がありました。

時間にルーズなのは昔からで、いつも足を引っ張られたり、被害を被っていました。
私は塾に行っていた時期があり、塾のリクリエーションでキャンプがありました。出発が土曜日の昼過ぎで、当時は土曜日の午前中は学校の授業があっったので、帰宅してすぐに塾に向かう予定でした。
当日、母は宗教の行事で午後には帰ると言っていました。そして、昼までには帰ってくると約束をしていました。私はいつも通りに帰宅し、昼食を食べてキャンプに行こうと思っていましたが、帰宅してチャイムを何度押しても誰も出てきません。
「帰ってくるって行ってたのに!」と、裏切られた気分になりました。そして、何分待ったか忘れましたが、長い時間待たされた気分でした。イライラしながら待っていると、何食わぬ顔で母が帰ってきました。

部屋に入った頃には、集合時間の20分前でした。持ち物の準備が万端ではなかったので、少し用意しないといけません。昼食を食べる時間と塾までの時間約10分を合わせると、完全に間に合わなくなりました。

弟は、帰っても誰もいなかったので、近くの友達の家に寄っていたようです。

私は悔しくて「約束を破るな!なぜ帰ってきてくれないんだ!」と涙ながらに訴えました。
最初は母は誤っていましたが、徐々に反論するようになり、「家族のことを思って祈りに行ったんだ!私は遊びに行ってたんじゃない!」と理不尽な言葉を返されました。
「なぜこんなに母に振り回されないといけないのだろう」と、この時は辛くて仕方ありませんでした。

この頃、市役所のケースワーカーの人が度々訪問してきました。家の中はとても散らかっていてゴミだらけだったので、家に上がってもらう事ができません。それに、ゴミ屋敷のような部屋を見られるのも恥ずかしく思っていました。
そのため、チャイムが鳴ると、いつも居留守を使っていました。ケースワーカーの人はいつも手紙をポストに入れて帰っていました。いつも居留守を使っていたので、誰かが訪問した際、忍び足でドアまで行ってドアの穴を覗き込んで、応対していました。

このような状況は普通ではないと思い、「家の掃除をしよう」と母に言っていたのですが、面倒に片付けたくなかったらしく、一向に腰をあげようとしませんでした。
台所の流し台はいつも汚れた食器が積み重なって、食事前に使う食器だけを洗って使っていました。自分用のお箸はなく、割り箸を繰り返し洗って使っていました。本当に不衛生でした。

私は元々綺麗好きだったので、あの環境は辛くて仕方ありませんでした。私が一人で掃除しようとすると、いつも母に止められていました。掃除や整理整頓を嫌うようになっていたようです。

私の家は団地の3DKの部屋で、3人家族なら、狭い思いをせずに住めるはずでした。6畳、4畳半、3畳とダイニングキッチンという構成になっていて、3畳の部屋は物置き状態になっていました。4畳半は私と弟の部屋になっていましたが、ここにも不用品などを置いてあり、とても狭かったです。6畳は一番広かったですが、それでもゴミやら不用品などでここも狭かったです。
そのうち徐々に6畳と4畳半も物で選挙され、寝場所が6畳だけになってしまいました。

不衛生で狭い部屋にずっと住んでいて、いつもストレスがかなり溜まっていました。
学校に行って、多くの生徒を見ていると、「あんな悪環境な家に住んでいるのって、俺だけだろうな」と思ってしまうようになり、憂鬱な気分になっていました。

そしてこの頃の日本はバブル時代に突入しだした頃で、好景気で華やかな時代でした。同級生の話を聞いていると、旅行に行ったとか親に服を買ってもらったとかゲームソフトを買ってもらったとか、羨ましい話を沢山聞かされていました。

好景気で贅沢を嗜む国民が多いなか、私の家庭は生活保護を受給していたので、貧しい日々を過ごしていました。ただでさえ生活費が少ないのに、母の金銭感覚が鈍いせいか、必要以上に出費が多かったように思います。
私が体調を崩した時、母と二人で交通費2,400円かけて、月に2回ほどわざわざ遠くの診療所に行ったり、台所が汚いので弁当を買う事が多かったりして、節約する気持ちがなかったように見受けられました。

様々なストレスを抱えながら思春期を過ごしていました。

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